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竹内栖鳳

京都府京都市中京区御池通油小路の川魚料理屋「亀政」の一人息子[2]。1877年(明治10年)に四条派の土田英林に絵を習い始めるが、1881年(明治14年)の17歳の時に同派の名手として知られた円山・四条派の幸野楳嶺の私塾へ正式に入門する。この頃から頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、「楳嶺四天王」(栖鳳と都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の高弟4名を指す)の筆頭と呼ばれるようになる。

1887年(明治20年)、23歳の時に結婚し、これを機に絵師として独立する。同年、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)修了。1889年(明治22年)には京都府画学校に出仕し、京都の若手画家の先鋭として名をあげてゆく。新古美術会や日本絵画協会などに出品する。 1891年(明治24年)、山元春挙、菊池芳文らと青年画家懇親会を興す。1893年(明治26年)、シカゴ万博に出品[3]。1899年(明治32年)、京都市立美術工芸学校の教諭に推挙された。

1900年(明治33年)、8月1日神戸を出帆、36歳の時に、パリ万博で『雪中燥雀』が銀牌を受け、視察をきっかけとして7か月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けた。1901年2月25日帰国後、西洋の「西」にちなんで号を栖鳳と改めた[4]。

1907年(明治40年)、文展開設とともに審査員となり、以後1918年(大正7年)まで歴任した[5]。帝展(現日展)審査員にもなり、1913年(大正2年)12月18日に「帝室技芸員」に推挙[6]されることで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立した。1919年(大正8年)、帝国美術院会員となる。また、1909年(明治42年)、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)開設とともに教授に就任し、1924年(大正13年)まで務めた。1924年(大正13年)にフランスのレジオンドヌール勲章、1931年(昭和6年)にハンガリー最高美術賞およびドイツのゲーテ名誉賞、そして1937年(昭和12年)に第1回文化勲章を受けた[7]。

1931年(昭和6年)に胃潰瘍を患ったことを機会に神奈川県足柄下郡湯河原町を静養のために訪れる。その際、湯河原が気に入り定住するために天野屋旅館を別荘とした[8]。前述の文化勲章受章の一報も天野屋で受けている[9]。

戦時下では軍部に協力の姿勢をとっており、絶筆となった作品『宮城を拝して』は陸軍省から委嘱されたものであった[10]。 敗戦を見届けることもなく1942年、天野屋旅館で[11]病気療養中の折、肺炎のため亡くなった[12]。湯河原には女弟子・六人部暉峰(むとべ・きほう、1879-1956)を伴っている[13]。

評論家の竹内逸は息子にあたる。

1864年12月20日(元治元年11月22日) – 1942年(昭和17年)8月23日)は、戦前の日本画家。近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。

京都画壇の重鎮であった幸野楳嶺に師事。
若くして頭角をあらわし、近代京都画壇の中心的な存在として活躍した。
1937年、文化勲章を受章。
「動物を描けばその体臭までも表す」といわれた描写力と洒脱な画風で国内外で高く評価されている。
門下からは橋本関雪、土田麦僊、西村五雲、小野竹喬、上村松園などを輩出した。

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